「佐賀藩手明鑓・武藤信邦の生涯」

東日本大震災による被災者の皆様に心からお見舞い申し上げます。

 こんにちは。
 平成21年度から平成22年度までの古文書講座(中級編)の講師を務めていただいた伊藤昭弘先生(佐賀大学地域学歴史文化研究センター准教授)が、「佐賀藩手明鑓・武藤信邦の生涯」という論文を『佐賀学』に書かれています。
 古文書講座(中級編)に参加された方は直ぐに気づかれたと思いますが、テキストとして解読していた「信邦一代大略記」(袋武藤家資料)をもとにした論文です。
 幕末期佐賀藩の下級武士が書き残した数少ない記録の紹介であり、偉人の見た幕末期佐賀藩とは一味違うものとなっています。
 以下、内容を少し紹介しますが、古文書講座に参加した方だけでなく、幕末期佐賀藩に関心がある方にぜひ読んでいただきたいと思います。

 内容は、
  はじめに
1 出生・幼少期
2 武藤家へ入る
3 行政官として
4 軍人として 信邦と勝一郎
  おわりに

 で構成されています。
 佐賀藩の徒(かち)であった高柳家に生まれた信邦は、文武に精進し、「格合違」の手明鑓(てあきやり)武藤家に婿養子として入り、川副代官所手許役、郡目付、御山方御鹿倉調方附役等に任じられていきます。明治2年(1869)には「大殿」(閑叟公)の御供として上京し、閑叟公在京中の経費を管理したようです。
 明治3年8月には佐賀藩の役職を離れましたが、明治6年(1873)から翌年まで茨城県庁に出仕します。
 行政官としてだけではなく軍人としても有能だったようで、20歳代でタイ捨流剣術と火術方二段を相伝し、嘉永6年(1853)には長崎の神ノ島に駐屯しています。
 明治7年以降の「信邦一代大略記」は子供や孫たちについての記録が中心となります。  

 最後に「下級武士や農民・商人たちがみた幕末佐賀藩の姿を構築することが、今後佐賀藩研究の一助となるだろうと考えている。」(p201)と伊藤先生は述べられています。

*『佐賀学』(佐賀大学・佐賀学創成プロジェクト編 税込3,150円)は、福岡の出版社花乱社から先月出版されました。地元の佐賀新聞でもすでに5月10日と5月15日の2回紹介記事が掲載されましたのでご存じの方も多いのではないでしょうか。
 以下の佐賀大学地域学歴史文化研究センターHPで『佐賀学』の目次が紹介されています。

http://www.chiikigaku.saga-u.ac.jp/kankoubutsu.html

*「信邦一代大略記」(袋武藤家資料)
袋武藤家資料は、佐賀藩の手明鑓というどちらかといえば下級武士であった武藤信邦とその息子勝一郎に関わる幕末から明治にかけての資料です。その中でも「信邦一代大略記」は、信邦が書き残した自伝であり、社会情勢、仕事、家族のことについて事細かに記録しています。

*武藤信邦(文政7年[1824]〜明治33年[1900])
 助之允 石高:切7石 大組:鍋島志摩(倉町鍋島家:家老) 手明鑓組:中野忠太夫
 役職:郡目付 住所:袋村(現在の佐賀市本庄町大字袋)
(「幕末佐賀藩の手明鑓名簿及び大組編制」佐賀大学文化教育学部研究論文集 第14集第2号 2010 による)