古文書講座(中級編)を開催しています(その5)

 こんにちは。

 2月5日(土)、古文書講座(中級編)第5回を行いました。
 テキストは引き続き、武藤信邦の自伝「信邦一代大略記」(袋武藤家資料)です。

 今回は、元治元年(1864)、信邦41歳から、慶応2年(1865)、信邦42歳までの記録で、謹慎騒動にまでなった「虚病」(仮病)だとしての取り調べも1年後の慶応元年に「御裁許」が下り、「重畳不届至極」として隠居を仰せつけられます。しかし、信邦にとっては特段の不利益を被ることはなく、望んだ結果となります。
 武藤家は相変わらず大きな出来事が続きますが、信邦倅勝一郎(寛次)についての記載が増えてきます。

元治元年(1864)
・11月までは、「虚病」(仮病)だとしての取り調べが評定所で毎日のように続きます。8月には自宅に戻ります。結論は翌年に持ち越しとなります。
 また、倅勝一郎(寛次)が第一次「長州御追討」に派遣されます。11月6日から9日までに鍋島鷹之助組、鍋島左馬助組、鍋島志摩組、火術方などの「出勢之組」について記録しています。

元治2年・慶応元年(1865)
・1月、勝一郎(寛次)が無事に帰還します。
・2月、娘よしが養生の甲斐なく14歳で亡くなります。
・6月、前年からの謹慎について「御裁許」が下り、「重畳不届至極」として隠居を仰せつけられます。

慶応2年(1866)
・4月、養父郡江口村(現在のみやき町、旧北茂安町)に「筆子取立」として赴くことになり、蓮池藩士犬塚新内宅に居候することになります。このため袋村(現在の佐賀市本庄)の自宅は娘(とみ)婿手明鑓藤川広次(為親)に貸すことになります。
・5月、寛次は第二次「長州御追討」のため、「仕寄普請方手伝役」を仰せつけられ、7月には小屋ノ瀬(木屋瀬[長崎街道の代表的な宿場町] 現在の北九州市八幡西区)まで出張します。8月には無事戻ります。

 明治維新まであと2年となり、今年度の講座も3月を残すだけとなりました。

講座の様子
(写真)講座の様子

木屋瀬については:
http://matinami.o.oo7.jp/kyusyu-okinawa/kitakyusyu-koyase.html