古文書講座(中級編)を開催しています(その4)

 こんにちは。

 1月 8日(土)、古文書講座(中級編)第4回を行いました。
 テキストは引き続き、武藤信邦の自伝「信邦一代大略記」(袋武藤家資料)です。

 今回は、文久2年(1862)11月、娘とみ(富子)の結婚から、元治元年(1864)6月の「虚病」による取り調べまで、武藤家の内外で大きな出来事が続きます。信邦39歳から41歳までです。
 なお、とみ(富子)の結婚相手である手明鑓藤川広次(為親)は明治になり栃木県令まで出世を遂げますが、とみ(富子)は明治9年、29歳で亡くなります。葬儀は神式で行われ、葬儀の詳細な記録が別に残されています。

文久2年(1862)
・11月、大河内(現在の伊万里市大川内町)詰となり、一家で引っ越します。大河内までは、八田江(現在の佐賀市)から高橋(現在の武雄市朝日町)まで船で、高橋からは陸路で大河内に向かいます。

文久3年(1863)
・2月19日、長男勝一郎が弘道館監厨を仰付られ、3月5日には異船渡来のため長崎に厘外津(現在の佐賀市西与賀町)から出発します。(香焼島警備に従事していた勝一郎は、攘夷直前の長崎の状況を報告する手紙を信邦へ書いています。)
・8月5日、前妻「にい」の一周忌(前年8月5日死去)の法事を営むため、休暇願を出し、10日間の休暇をもらっています。大河内への帰りには川古宿(現在の武雄市若木町)で一泊しています。

文久4年(元治元年)(1864)
・2月6日、彼杵・高木部所検者方に移ります。このころ組織のスリム化が行われ、郡目付10名が削減されます。削減された手明鑓クラスの氏名を書き残しています。
・5月1日から病気のため出勤できない旨の願を再三提出しますが、「虚病」(仮病)だとして取り調べが行われ、信邦も含めて14名が謹慎することになります。氏名を書き残していますが、手明鑓クラスの者です。理由については、「別紙手続書」に詳しく書き残しているとしていますが、残念ながらよく判っていません。
 単に「虚病」ではなく、個人的なことではない、何らかのトラブルの存在が推測されます。

 明治維新まであと4年となりました。今年度の講座はあと2回のため、江戸時代までで、明治時代の記録については来年度になりそうです。

古文書講座(中級編)第4回
(写真)講座の様子

香焼島の勝一郎から信邦への手紙については:
http://www.chiikigaku.saga-u.ac.jp/saganorekishisanpo1st.html
攘夷決行と佐賀藩については、伊藤先生の書かれたものがあります。例えば:
http://www.chiikigaku.saga-u.ac.jp/jouitosagahan2.html