古文書講座(中級編)を開催しています(その6)

 こんにちは。

 3月5日(土)、古文書講座(中級編)第6回を行いました。
 今年度の古文書講座も最後となりました。
 平成21年度から講師を引き受けていただいています伊藤昭弘先生(佐賀大学地域学歴史文化研究センター准教授)と講師として派遣していただきました佐賀大学地域学歴史文化研究センターに深く感謝いたします。ありがとうございました。

 テキストは引き続き、武藤信邦の自伝「信邦一代大略記」(袋武藤家資料)です。
 今回は、慶応2年(1865)8月から慶応3年(1867)9月まで、信邦42歳から43歳までの約1年間です。信邦は、前年の隠居(処分)が解かれ、再び武藤家の当主に戻ります。このため長男寛次は部屋住として「奉公」することになります。

慶応2年
・8月 御蔵方からの手紙を江口村(現在のみやき町)にいる信邦に寛次が持参します。このため信邦は佐賀に戻り、小検見役を仰せ付けられます。このため、東西郷の田圃の検見に11月まで従事します。
・9月 寛次が、長崎神ノ島に「筒打」として詰めます。
慶応3年
・2月 長崎神ノ島詰であった寛次が2月23日に帰ってきます。これについて、3月から御三家(小城藩鹿島藩蓮池藩)が警備につくことによる交代であると書き添えています。
・4月 長崎元御屋敷に病人が出たため、「筒打」の交代要員として再び寛次が赴きます。
・5月 2年前、「不調法」により隠居(処分)を仰せ付けられていた信邦は、「万部御執行」により許され、再び武藤家の当主に戻ります。その間の状況について、関係する書付、口上、達の内容を書き写しています。許されるとの連絡があった9日後、本丸「外御書院廊下」で正式に申し渡され、その翌日に「御料理ノ御間」で披露されています。
・6月 江口村を引き払い、佐賀に戻ります。御境川筑後川)を船で下り、城下今宿(現在の今宿町)で荷物を下ろします。袋村(現在の本庄町本庄)の自宅は、娘夫婦(藤川広次(為親)・とみ(富子))に貸していたため、大井樋村(現在の本庄町本庄)に住む甥の所にやっかいになります。
・8月 娘夫婦が城下勢屯(現在の白山2丁目あたり)に引っ越したので、やっと自宅に戻ります。
・9月 寛次が長崎詰から戻ります。

佐賀藩支藩小城藩鹿島藩蓮池藩)について、萩藩における支藩のあり方と比較しながらわかりやすく解説していただきました。
*テキストの解読が終わった後、伊藤先生から武藤家のその後、信邦の家族や明治期の信邦についての補足がありました。
 6人いた信邦の子供のうち3人、寛次も含めて、は信邦よりも早く亡くなります。明治になって軍人として全国を異動した寛次は、広島で亡くなります。袋村の武藤家は寛次の弟が継いだようです。明治33年(1900)、77歳で亡くなった晩年の信邦は、好々爺然として家族の事を最後まで書き続けました。

 明治まであと1年というところまで解読を進めましたが、古文書講座のテキストとしてはここまでということになります。来年度からはまた別の資料をテキストとして解読することになりますので楽しみにお待ちください。
 「信邦一代大略記」(原文)の続きは、県立図書館に排架している複製本で読むことができます。ぜひご利用ください。

古文書講座(中級編)⑥
(写真)講座の様子