伊能忠敬と佐野常民

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 佐野常民(さの つねたみ 1823〜1902)は、幕末・明治期にかけて多方面で活躍し、「佐賀の七賢人」の一人として知られるとともに「博覧会男」、「日本赤十字社の父」ともよばれています。

佐野常民については:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E5%B8%B8%E6%B0%91

 忠敬(1745〜1818)の没5年後に常民は佐賀藩で生まれ、お互い何の接点もないように思われますが、明治になり常民は、忠敬の顕彰運動を熱心に行うようになり、その結果正四位」が忠敬に追贈されました。
 のちに忠敬の事績が教科書等に取り上げられるのは常民のおかげとも言えます。
 ちなみに、「正四位」が贈位された人物は坂本龍馬高杉晋作高野長英杉田玄白等です。

 このような顕彰運動を行うようになった理由を「伊能忠敬翁事蹟」(明治15年9月、東京地学協会における講演)で次のように常民は述べています。

長崎海軍伝習所の伊能図を借り受けて複写し、航海図として確実精詳であることに「敬服」、「驚嘆」したこと。このため多くの航海者がその恩恵を受けたこと
・イギリスが日本沿海測量を行おうとした時に伊能図を与えたことによって測量が中止され、忠敬のみならず「日本の名誉」となったこと
・ウイーン万国博覧会明治6年(1873))に伊能図を出展し、各国の賞賛を得たこと

 また、明治13年12月、常民は伊能一族の家に宿泊し、親族からさまざまな忠敬の事蹟について話を聴くとともに資料を収集しています。
なお、明治24年頃、一族の伊能リツが常民の家に行儀見習いとして入りました。

 明治22年(1889)、芝公園オベリスク型の銅標「贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表」(昭和19年撤去、その後1965年再建)が建設されました。ちなみにこの銅標の設計者は佐賀県唐津出身の辰野金吾です。

参考文献:前田幸子「名著『伊能忠敬』−その時代と人脈(一)」伊能忠敬研究 第57号 2009 他