江戸市中を焼失させた「元禄の大震災」

 元禄16年(1703) 11月22日、世にいう「元禄の大地震」が起こりました。この大地震によって南関東地方に大きな被害が出たことは、前回(7月25日付)のブログで紹介しましたが、今回はその余震とみられる地震によって起こった江戸市中の大火災と、この非常時における小城鍋島藩三代藩主鍋島元武の行動について、前回同様「元武公御年譜」から引用し書いてみたいと思います。


11月29日の夜、江戸小石川の水戸屋敷から火災が起こった。火は北西の風に流され小石川から本郷下谷周辺を焼失させた。この知らせを受けた鍋島元武はすぐさま江戸城に登城し、直ちに神田橋の見張番所に出かけられた。柳沢吉保と松平輝貞に連絡を取り、自分の身の振り方について指示を待たれた。
夜五つ半時分(午後9時頃)上野方面の消火を行うようにと、御用番の小笠原長重から連絡が来ると、元武は火消道具を持ってくるようにと言い残し、すぐさま上野一乗院に行かれた。道具が届き着替えを済ませ、御本坊(現在の東京国立博物館周辺)に行かれたが、上野は別条なく上野御本坊前で警戒をした後、一乗院へもどられた。

上野一乗院は荒川辺八十八箇所85番霊場として、現在のJR上野駅周辺にあった鍋島家にゆかりのある寺院でした。現在は残念ながら廃寺となっています。

 鍋島元武は火元の水戸屋敷へ赴き鎮火確認の指示をされた。下谷筋、三枚橋通り、日本橋辺りの消火確認の後、御屋敷へ戻り御供の者たちと一緒に暫く休憩をされた。
(翌30日)元武は7つ時(午前4時)頃出かけられた。日本橋で待機していると、林忠和の使者が来た。彼が言うには「八丁堀筋あたりは風下になっていて非常に危ない」とのこと。そこで元武は非常に心配して八丁堀へ行かれた。
九鬼隆直・御船手柳沢彦左衛門の屋敷へ藩士を差し向け、暫く様子を見たが、大方風向きも良くなり元武はひとまず御屋敷へ戻られた。

この「御年譜」には、この大震災の被災状況について次のように詳細に書きこんでいます。

下谷筋、浅草見附、馬喰町筋は残らず焼失し、両国橋は三分の一が焼け落ちた。
本所、深川辺りが焼け、本所の秋元喬知、小笠原長重、阿部正武、土屋政直などの各下屋敷、矢ノ蔵御屋敷、柳沢吉保のかや丁屋敷が焼失。元武はすぐさま、各御屋敷へお見舞いの使者を遣わされた。
この度の火災は、徳川水戸宰相綱條の奥長局から出火。折からの大風激しく吹き、火は三方に分かれて大火となった。
初めのうちは南風だった。一方は小石川の水戸屋敷から鳶坂(現富坂)、本郷へ火が移り、前田綱紀、榊原政邦の屋敷を焼いた。次に北風となり、湯島天神神田明神湯島聖堂から神田方面へ火が移り、残らず焼失。東叡山の内、谷中、三嶋、下谷、浅草雷門まで焼き、さらに駒方、竹町、聖天町、山谷まで焼いた。もう一方は、小石川から小川町方面を焼き、筋違橋に火が移り、須田町、田町(現本郷)、そして豊嶋町へ広がり、さらに本町、石町を初め下町の深川八幡、傳馬町、堺町、濱町河岸まで残らず焼失。
そして、ついに両国橋が焼け落ちてしまった。
使者の数3万人余り。死骸は河岸に積み上げられた。火は本所に飛び火し、石原、亀井戸から四つ目通り、五百羅漢、猿江まで焼いた。
翌日五つ時(8時頃)に火は止んだ。


この記事は、小城鍋島藩三代藩主鍋島元武の生涯を記した「元武公御年譜」の中にある、元禄の「江戸大地震」に関する記録によって書きました。今から約300年前の江戸時代中期に起きた大震災です。江戸の旧地名を調べながら、焼失した地点を東京の地図上に落としてみてください。この火災がいかに凄まじかったのかがよくわかります。
この「元武公御年譜」を収載する『佐賀県近世史料』第二編第二巻は、佐賀県立図書館にて頒布しています。

佐賀県近世史料

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