築地反射炉の場所について報道されました その2(日新小学校)

  • 東日本大震災による被災者の皆様に心からお見舞い申し上げます。

 こんにちは。

 新聞やテレビで報道された築地反射炉の場所に関連して、反射炉の位置について記載された『佐賀縣史蹟名勝天然記念物調査報告』第1輯(昭和3年(1928) 昭和51年(1976)青潮社から復刻)や佐賀市立日新小学校(佐賀市長瀬町9番15号)のホームページに掲載されている古い写真を紹介しましたが、その写真の場所と撮影時期について質問が寄せられました。

 日新小学校のホームページに掲載されている校舎建設中の写真には「学校ができたころ」(明治)というキャプションがつけられているが、現在地に学校が「できたころ」なのか、それとも前身である博文小学校、(旧)日新小学校が「できたころ」なのか。
 また、「今の場所に移ったころ」のキャプションがある写真は、何時の写真だろうか。

・日新小学校については:
http://www2.saga-ed.jp/school/edq10103/
・日新小学校建設中の写真は:
http://www2.saga-ed.jp/school/edq10103/page/enkaku.html

 ブログでは、「学校ができたころ」(明治)の写真を、現在の敷地に建設中の校舎であると説明していましたが、その理由を簡単に紹介します。

 『佐賀県教育史』第1巻(佐賀県立図書館刊 1989年)に掲載されている「佐賀縣史料」(明治8年)、「諸願伺届」(県19-1)の記述によれば以下のようなことがわかります。
博文小学校伊勢屋町257番地にあり、旧民家を再利用。
 伊勢屋町257番地の場所は確認できませんが、「在来之家居丈取飾同所建置」いたものであり、それほど大きな校舎ではなかったと考えられます。
(旧)日新小学校:長瀬町、新築(西念寺東側の十間堀を埋め立てて敷地造成)
 (旧)日新小学校は、西念寺東側に天祐寺川と並行していた十間堀を埋め立てて敷地としています。このため、博文小学校同様、「学校ができたころ」(明治)の写真に写っているような広さの敷地を確保することは不可能です。

旧日新小学校校門前の石橋(東から)天祐寺川と長崎街道
          (旧)日新小学校校門前の石橋(東から)
*中央は天祐寺川、右側は長崎街道です。十間堀は、天祐寺町(現在の六座町西部分)の東側から日新公民館南方まで延びていましたが、明治以降、全て埋め立てられています。

 さらに、戦後の地形図(1948年撮影、1952年現地調査・作図 縮尺1/5,000)に画かれている校舎配置が、細部は異なりますが、基本的に写真と一致します。
 また、写真の校舎の一部は、昭和41年頃まで残っていました。

 「今の場所に移ったころ」のキャプションがある写真の撮影時期は分かりませんが、以下のことが参考になると思われます。
・建設当時の校舎は2階建てではなかった。
・玄関横に「相撲体操」の像(「少年の像」)がある(「相撲体操」は、昭和3年(1928)に創られたとされています)。
・玄関横の「少年の像」は、昭和40年(1965)に完成した石膏像のようです。
・石膏像は、昭和49年(1974)にブロンズ像に建て替わっています。
「少年の像」については:
http://www.city.saga.lg.jp/kids_school/kids_school_details.jsp?id=4380

 古い写真を調査する機会がありますが、写真を撮影した場所や日時、内容、人物名などの情報が残されているものはそれほど多くありません。その写真の所有者にとっては自明の情報だったのでしょうが、後世の者にとっては、貴重な情報が記録されていないことはとても残念です。

佐賀県教育史』の入手方法は:
http://www.pref.saga.lg.jp/kentosyo/osirase/osirase1.htm
*残念ながら第1巻は品切れです。