築地反射炉の場所について報道されました

東日本大震災による被災者の皆様に心からお見舞い申し上げます。
 こんにちは。
世界遺産登録を目指して発掘調査等が行われている築地(ついじ)反射炉の場所を特定できる見解が明らかにされたことについて新聞(5月18日)やテレビ(5月17日)で報道されました。

佐賀新聞(5月18日更新)の記事については:
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1906637.article.html
・築地反射炉については:
http://www.pref.saga.lg.jp/web/kankou/kb-bunka/sekai-isan/_28393.html#tsuiji
・築地反射炉跡の発掘調査の状況(平成21年8月)は:
http://www.pref.saga.lg.jp/web/kankou/kb-bunka/sekai-isan/_27730/_32354.html#2108tsuiji

 これまで、築地反射炉は、現在の佐賀市立日新小学校(佐賀市長瀬町9番15号)の敷地にあったとされています。

・日新小学校については:
http://www2.saga-ed.jp/school/edq10103/
・日新小学校建設中の写真は:
http://www2.saga-ed.jp/school/edq10103/page/enkaku.html
建設中の写真は、校舎から判断すると、南西方向から撮影されたようです。手前には稲小積が残り、校舎越しに松の大木が見えています。松の大木は、土堤に植えられていたものではないかと考えられます。

 新聞等の報道では、『公役人御鋳立方并築地御立寄録』(鍋島家文庫 請求番号:鍋312-2)に描かれていた見取り図から場所を判断されたようでした。
 『公役人御鋳立方并築地御立寄録』については、佐賀県立図書館でも複製本、活字化した資料(『2004年低平地研究会・歴史部会 研究報告書』2005年に収録された「幕府役人の佐賀藩反射炉見学記」(小宮睦之翻刻・校註))を所蔵しておりますのでぜひご覧下さい。

 この築地反射炉の場所については、『佐賀縣史蹟名勝天然記念物調査報告』第1輯(昭和3年(1928) 昭和51年(1976)青潮社から復刻)に報告がありますので、参考までに紹介します。

 「築地反射炉ハ佐賀城址ノ西北タル現日新小学校ノ最北棟ノ西部ニ当リ教室ニ接近シタル東西百間南北十間位ノ細長キ場所ニシテ築地ノ土堤ヲ切拓キ其ノ上ニ建設シタルモノノ如ク水車ノ戸建現存セリ」(青潮社版(上)P285 原文縦書 一部漢字を当用漢字に変更)

 このことから昭和3年(1928)頃まで築地反射炉の場所については知られており、関連施設も遺存していたことがわかります。まだ、幕末・維新期を直接知っておられる方もご存命であったのでしょう。
 なお、現在の校地は、建設当時よりも西側に広くなっていますので、現在の西側校舎の大部分は戦後校地となった場所に建てられたようです。

 日新小学校は、藩政期の与賀上郷中折村一本谷一角・二角にあたり、反射炉が建設された場所は、『公役人御鋳立方并築地御立寄録』の見取り図から判断すると、日新小学校敷地北側の東西に延びる十間堀川に並行して築かれていた土堤(築地)に建設されていたようです。
 この土堤(築地)は、幅20m前後だったようで、細長い施設であれば十分な広さだったのかもしれません。

 ちなみに、築地(ついじ)を佐賀弁では「ちーぢ」と発音するのでしょうか。