凌風丸の生涯 2

 慶応2年(1866)2月28日に幕府大目付田沢対馬守と目付松浦越中守が将軍家茂の御内書を持って、鍋島閑叟に面会するため佐賀にやってきます。 
 このとき、奨学丸(幕府の船翔鶴丸のことと思われます)で早津江河口まで来て、凌風丸に乗り換え、三重津に上陸しています。対馬守たちは凌風丸にはじめて乗って、小型ながら日本人が独力で作った外輪蒸気船に驚いたことと思われます。3月7日、帰りの際も、凌風丸を利用しました。(『白帆注進外国船出入注進』鍋島文庫252-56)このころから、凌風丸の実際の活動が記録に現われ始めます。

 凌風丸は外輪蒸気船です。潮の満ちひきで、水深が浅くなり、水面が潟土に近くなる所では、スクリュー船が主体となった時期でも、外輪船の方が便利だったのかも知れません。

 凌風丸の全長は60尺(約18メートル)、10馬力と小型の蒸気船ですから、もともと外洋を航行する大型船ではありません。その製作の目的を久米邦武(1839〜1931、鍋島閑叟の近侍、維新後は東京帝大教授などを務めた歴史家)は「是は浅行船と称し、大川口より泥潟の外に出でて本船へ乗り込む端艇に代用するものにて、遠海航行に堪ふるものならず。」(『鍋島直正公伝』5編p.510)と解説しています。つまり、凌風丸は当初から、三重津と有明海上に碇をおろした大型船との間を、人や物を乗せて運ぶ連絡船の役割を想定してつくられていたものでした。(3へ続く)



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