『私の祖父 古賀廉造の生涯』が出版されました その2

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 こんにちは。

 古賀廉造(1858〜1942)の実孫である著者奥津成子さんが、廉造の伝記を書こうと思われた動機を三つほど「まえがき」に挙げられています。  
 まず、広東紙幣偽造事件(1912)と廉造が政治的生命を絶つきっかけとなった大連アヘン事件(1920)の疑獄事件の真相を解明し、廉造がどのような理由で関わり、巻き込まれたのかを明らかにする。
 次に、廉造の人となりとその業績についての正しい記録と評価を遺族の目から残したい。   
 さらには、廉造の事を書くという両親との約束を果たす
 
 もとより、筆者は近代史の専門家ではありませんが、地道な調査を続ける中で出会った研究者の協力を得ながら多くの埋もれていた史料を発掘し、疑獄事件の真相に迫っていきます。その中で、「廉造の中にある、(原敬、宇都宮太郎、孫文、犬飼毅等に対する、あるいは政党政治や大アジア主義に対する)何かに衝き動かされて、ただひたすら前へと突進するその想いを、誰ひとり止めることはできなかった」し、「御祖父の性格では全てはこうならざるを得なかった」という感慨にたどり着かれています。
 この伝記そのものが、祖父廉造や古賀家一族に対する著者の深い思いと、史料を調査し、古賀家の「伝承」と著者の記憶を一つ一つ紡いでいく貴重な記録となっています。

 さて、法曹界で活躍していた廉造は、明治38年(1905)1月、第一次西園寺内閣発足時に警保局長として政界に入ります。この政界入りは内務大臣原敬の要請によるとされています。
 警保局は、昭和22年に内務省が解体されるまで警察全般を所管した部署で、廉造が就任した警保局長は特別任用の政務官でした。強大な権力を持つポストに抜擢した原敬と廉造の特別な関わりの現れと思われますが、周囲の反対を押し切って就任した理由を「(廉造の)原に対する強い義の心」、「友義であり情義」だと著者は挙げられています。

・警保局については:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E4%BF%9D%E5%B1%80

 明治44年(1911)、廉造は第二次西園寺内閣で再び警保局長に就任しますが、翌年広東紙幣偽造事件に巻き込まれます。
 さらに、大正7年(1918)成立した原敬内閣では拓殖局長官に任命されますが、そこでも大連アヘン事件に巻き込まれます。拓殖局は、明治43年(1910)に外地(関東州、樺太、朝鮮、台湾、南洋諸島)統治、移民事業を担当する内閣直属の部局として設立され、後に拓務省となります。
 なお、拓殖局初代局長白仁武の娘興代は廉造の長男邦夫に嫁ぎます。

・拓務省(拓殖局)については:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%93%E5%8B%99%E7%9C%81

 広東紙幣偽造事件(無罪判決)や大連アヘン事件(有罪判決)の顛末については本文を読んでいただきたいと思いますが、いずれも廉造の個人的な私腹を肥やすためにものではなく、あくまでもその背景にあるのは、原敬の目指した政党政治や大アジア主義に対する廉造の思いであり、まさに「何かに衝き動かされ」るように「崩れ橋を駆け足で通」った結果ではないだろうか。

 なお、今年は辛亥革命100年として記念事業が各地で行われていますが、梅屋庄吉宮崎滔天頭山満、犬飼毅等と同様に「舞台裏」で中国革命を支えた一人として廉造は記憶されてほしい人物です。また、その周囲には宇都宮太郎(陸軍大将:佐賀出身)、古川武一(東京工科学校(日本工業大学)校主:廉造の乳兄弟)、平岡定太郎(樺太庁長官:三島由紀夫祖父)、正力松太郎読売新聞社主)、柳原白蓮歌人)、大杉栄社会運動家)・伊藤野枝(作家)などの多彩な人脈が広がっていました。

『私の祖父 古賀廉造の生涯』の表紙

『私の祖父 古賀廉造の生涯』の表紙