古文書講座(初級編)を開催しています その4

東日本大震災による被災者の皆様に心からお見舞い申し上げます。

 8月6日(土)、第4回古文書講座(初級編)を開催しました。

 今回からはこれまでの講座内容の復習を兼ねて当館所蔵の易しい古文書に取り組みます。

 今回のテキストは、『記録大風記(きろくおおかぜき)』(請求番号:図510 文政11年(1828)8月9日深夜から10日朝まで吹き荒れた「子年の大風(ねどしのおおかぜ)」(以下、「大風」)と呼ばれる台風について記録した資料。)に収録されている「佐嘉慶長町大騒動の事」から3個所をピックアップし、テキスト化しました。
 テキストは、使われている変体仮名を例示すると共にくずし字で書かれた本文に活字を併置し、比較しながらも読めるようにしています。漢字は比較的読みやすいので初心者の方でも取っつきやすいのではと選んでみました。

 『記録大風記(きろくおおかぜき)』は佐賀県立図書館が所蔵している写本で、表紙には「巌泉庵 記録大風 天保三壬辰歳八月十日記之」と記されています。
 巌泉庵は藤津郡嬉野郷上岩屋邑(現在の嬉野市嬉野町大字岩屋川内)にあったもので、著者は松浦山人千々舎馬亭と称しています。
 天保3年(1832)8月10日は大風から5年後に当たります。

 ここでは、「大風」と「佐嘉慶長町大騒動の事」について簡単に紹介します。

 「大風」は、過去300年では最大とも言われる台風で、「シーボルト台風」とも呼ばれていますが、松浦山人千々舎馬亭も「稀代の凶変」としています。
 この「大風」による被害状況はこれまでも分析されていますが、ここでは「1828年シーボルト台風(子年の大風)と高潮」(小西達男 「気象」57 2010)の分析を紹介します。

佐賀藩の被害 死者:8,200〜10,600人(80%横死、20%溺死)、負傷者:8,900〜11,600人、全壊家屋:35,000〜42,000軒 小西氏は、佐賀藩内の建物全壊率約50%、全半壊率75%程度と推定しています。
・高潮被害 有明海では4.5mを超える潮位偏差とされています。

・詳しい被害の状況は以下の小西氏論文で:
http://ci.nii.ac.jp/els/110007642324.pdf?id=ART0009461161&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1312623339&cp=

 「佐嘉慶長町大騒動の事」(以下、「大騒動」)は、「大風」のあと佐嘉城下でおこった騒動を記録しています。
 「大騒動」は5ページ強、61行程度の分量ですが、「大風」の後佐賀城下慶長町で起きた以下のような騒動の顚末を記録したものです。

 「大風」の後、佐賀城下では米が不足します。ところが、一代で御用商人まで成り上がった慶長町の武富八郎次が「強欲」から米の売り惜しみを行ったため人々の反発を受け、ついには8月27日夜8時頃八郎次宅が打ち壊しにあってしまいます。
 この騒動については評定所でお裁きを受けることになりますが、「悪年の時節柄」もあり売り惜しみを行った八郎次も徒党を組んで「打ち壊し」を行った中心人物たちも「仁恵厚き政道に依て」共に許されましたが、八郎次は末代まで売り惜しみの汚名を残すことになった。
 慶長町とは、佐賀城下牛島町の別称のようです。

*武富八郎次(初代)は、佐賀城下牛島町の佐賀藩御用商人であり、藩の蔵米の大阪回送にも従事していた牛島武富家の当主です。下村家から養子に迎えられ、牛島武富家を大きく発展させますが、「大騒動」の6年後、天保5年(1834)没します。
八郎次も下村家から養子大右衛門を迎えますが、「竈帳」では、長崎街道に面した牛島町北側の町並みの東詰より20軒目のところに屋敷を構えていました。

 次回も、これまでの基礎的な用語やくずし字の復習を兼ねて易しい古文書に取り組みますのでお楽しみに。

古文書講座(初級編)④の様子

 たくさんの方に参加していただきました。